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絵と布の画廊歳時記2015年11月12月合併号

絵と布の画廊歳時記2015年11・12月合併号

浮雲やわびすけの花咲いてゐし  渡辺水巴

侘助椿切り抜き

児島善三郎  侘助椿 35.5×24.6cm 1956年 個人蔵

 

 

侘助は花の名前の中でも忘れ得ない名前です。

この花の名前を覚えているだけで、もう、ずっと大人になったような気がする花でした。

歳時記で調べたと ころ秀吉の朝鮮出兵のおりに武将加藤清正が持ち帰ったという伝えがあるとありましたが、

もちろん、確かめられるわけもありません。

しかし、清正から、福島 政則、母里太兵衛とくれば有名な黒田節につながり、

博多生まれの善三郎ともいくばくかの縁もあるのかなと思います。
現在、来年の後半を目指し福岡アジア美術館を拝借し

「博多三傑 仙厓・渓仙・善三郎展」を企画しております。

ただし、アジ美を借りるには企画書を作成して 半年前から申し込みをしなければならないとのことで、

そこで、にわか勉強として武野要子氏が書かれた岩波新書

「博多—町人が育てた国際都市−」を読みまし た。

 

博多を第二の故郷などと言っていましたが、まことに知らないことばかりで大変勉強になりました。

古来大陸からの文化の入り口として栄えてきたことは鴻 臚館の存在などで理解しておりましたが、

後に仙厓和尚も住持を務めた古刹聖福寺などの禅寺が宋や元、明との貿易を仕切っていたということや、

蒙古来襲と秀 吉の朝鮮出兵が、その後の福岡博多の発展と繁栄に強く結びついていたこと、

それらによってもたらされた利権によって

莫大な財産や地位を築いた博多三傑と呼 ばれた商人たちが誕生したことなど詳しく知ることできました。
博多の豪商三傑とは神谷宗湛、嶋井宗室、大賀宗久のことを指し、

彼らは秀吉や利休と茶の道でも深い繋がりを持ち茶人としても有名です。

彼らが遺した 「宗湛日記」や「嶋井宗室日記」などは歴史資料としても第一級の価値を持っているようです。

 

そういう博多商人の歴史の流れの中で富田渓仙は

現在の下川端の 素麺製造の旧家に1879年に生まれ、

善三郎は1893年に九代続いた紙問屋児島本家の長男として生まれました。

同郷ですが進んだ道が日本画と洋画と畑が 違い、

二人の作品が一堂に並べられたことは現在まで聞いたことがありません。

しかし、二人の間には通底する何かが眠っているのではというのが私の興味で す。

ともに、博多の町民が愛した仙厓を崇敬し、

多くの影響をその親しみやすい禅画から受けて、それぞれの画境を深めて行きました。
この展覧会を是非成功させたいと願っておりますが、

仙厓作品や渓仙作品はなかなか手に入れることができません。

様々な方々のご助力を仰がなければ困難です。

皆様方におかれましても是非、よろしく応援のほどお願いいたします。

 
さて、侘助椿の絵に話を戻そうと思いますが、

同時期に咲く山茶花とは花の感じは似ているのですが雰囲気が大分違います。

山茶花は一二輪だと可憐な感じがし ますが、

大きな株いっぱいに花をつけると多情、多産の象徴のように見えてちょっと引きたくなります。

それに比べ侘助は葉もすんなりと細く、

花もこの絵のよ うにおっとりと品良く咲きます。

例えるなら桃山の武将がそばに置いた若衆のような感じでしょうか。

それにつけても、この絵のバックの紫色は絵画ではまず見 ない色です。

巨匠マチスが室内風景で使ったのを見たことがあるくらいです。

普通まず思いつくのは和服や和菓子の色です。

日本的油彩画がたどり着いたところ は唐桟縞と江戸紫に南京赤絵、

かすかに桃色差した侘助の白い花ということでも悪くはないかもしれません。

善三郎でしか描けない花の絵です。

 

ある評論家が善三郎のことを追悼文の中で無冠の太夫と表現しましたが、

その姿は浮雲に似ているようにも思えます。

 

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