眺めやる野水の行方春浅し 松本たかし
児島善三郎 「早春」 1949年
もう、おなじみの国分寺風景。松と東屋と眼下の田圃の景色です。言うなれば、画家の定点観測地点。
「冬田」、「浅春」、「野邊之春」、「満開」、などなど。無題の同構図を含めるとかなりの数になります。
まさに、四季折々に移り変わる風情を綴っています。
赤瀬川原平さんが画集の巻頭文に寄せてくださった「空気のレアリズム」の中に、
「善三郎が描いているのは、その風景に漂う空気そのものだ。
略、描いているのは風景の形の細部ではなくて、その空気の細部なのだ。
略、つまり、この独特の空気の捉え方は、描写する禅画と言えるのかもしれない。」と書かれています。
ここのところを最初に読んだ時、「描写する禅画」という表現があるのなら、
「描写しない禅画」というのもあるのかな?と思いましたが、
禅には「只管打坐」などと同じくらい重要な「不立文字」という教義があるのですから、
やはり「描写しない禅画」も存在するのかと納得してしまいました。
確かに、壁に向かって只々座禅することと、
見慣れたアトリエの横からの風景を折々に描く行為は、どこか似ているのかもしれません。
言うなれば、描くことも描かないことも大して変わらないことで。
その場にいること自体が大事なのでしょう。
赤瀬川さんは文章の〆に若い頃の裸婦の描写にも触れながら、
「やはり、善三郎がいつも気にかけていたのは、実感なのだ。風景に立ち向かう時の太い筆も、
その空気の実感をつかみ取るのに必要なものだったのだろう。」と結んでいます。
「写実とは久遠の生命の把握です。久遠の生命の把握とは、概念を去った、有りの儘の姿の誇張です。
芸術家のみが把握しうる想念の世界です。」とは、
善三郎が作画の苦しみを年下の友人大久保泰氏への手紙の中で書いている言葉です。
めぐりくる春は凄まじい南風「春一番」が巻き上げる風塵と共に武蔵野の野辺にやって参ります。
ShokoヌリエMosaico展
会期:2017年4月15日(土)〜30日(日)月曜休
時間:12時〜18時
会場:丘の上APT/兒嶋画廊
一昨年末に佐藤尚子さんの作品に出会ってから2年余の構想の末、漸く展覧会開催の運びとなりました。
ダウン症という障害をもって生まれ、八王子生活館での活動を中心に創作活動を続けてこられた佐藤尚子さんの多くの作品の中から、
モザイク状の色彩豊かなヌリエシリーズ約30点を選びました。
それらを私がデジタル加工して、高精細ジークレープリントで再現したものを展示いたします。
オリジナル作品はサインペン等で描かれており耐光性や耐酸化性に弱く保護の必要があるため、
このような展示方法を取ることにいたしました。複製化し額装することで多くの人々に鑑賞美術として楽しんでいただき、
また、複製作品の販売の売上から作者や支援団体に還元してゆきたいと考えております。
皆様のご協力をお願い申し上げます。
「Shoko ヌリエ Mosaico」
子供だった頃、ふと、目が覚めた深夜の寝床の深い闇や、
眠れぬ夜の火照った瞼のスクリーンに七色の虹彩に輝く小さなモザイクを見たのは、私だけだろうか。
小さく見えていた無数の色の点はやがて大きく渦巻きながら輝きを増し、色彩の迷宮となって、私を恍惚とさせた。
あの、モザイクはなんだったのだろう。
暗闇でオーロラを待つように目を凝らしていると、やがて、あの、渦が出現し部屋いっぱいに広がって、元の暗闇を覆い尽くす。
そんな、子供の頃の、夢とも恐れともつかぬ思い出を尚子さんの作品を見ているうちに思い出した。
今、尚子さんは静かに眠りながら養生している時が多いようだ。
彼女の瞼には美しい虹彩が元気な時と同じように投影され、眩く輝いているにちがいない。
私たちは眼前にある尚子さんの作品を通してその世界を想像することができる。
太古の時代より人々は夜空に輝く満天の星辰やオーロラなどの大スペクタルを飽きることなく見上げていたはずだ。
私たちの中にはその記憶が強く染みついているはずだ。
美の世界に見ると、古くは装飾古墳の石室内や平安時代の平家納経の装飾経の金銀砂子やキリスト教のモザイクイコンなどが、すぐ思い浮かぶ。
近現代ではグスタフ=クリムトの「抱擁」に代表されるような作品群や1960年代の瑛九の作品などが思い起こされる。
今現在に尚子さんの作品「shokoヌリエmosaico」を皆さんと共有できることはどんな意味を私たちに与えてくれるのだろうか。
世界の人々の心から夢色の破片が剥ぎ取られ黒色に塗り替えられて行きそうな予感が充満しつつある今、
尚子さんの作品が福音となってくれることを祈っている。
新着コーナー
児島善三郎 「薔薇」8号
オールドカンタ
福井良之助 「光る河」60号
福井良之助 ミニアチュール「椿」