• 展覧会
  • 終了

児島善三郎 - ここに緑ありて –

k00292-1

 

日時: 2021年6月5日(土)〜7月18日(日) 12:00-18:00 月祝休
場所: 丘の上APT/兒嶋画廊 (東京都国分寺市泉町1-5-16 Tel.042-207-7918 Mail: eakojima@gmail.com)

 

 

 

ここに緑ありてフライヤーMailサイズ表

 

ここに緑ありてフライヤーMailサイズ裏

 

 

 

詩人で俳人の安東次男氏(1919-2002)が1964年の児島善三郎遺作展に寄せた追悼文の表題が「ここに緑ありて」である。
氏はその中で「児島善三郎の絵には、見るものをして無視させない何ものかがある。
悠久の山河、そういうことばで形容してもおかしくはない。ここに緑ありて、というような感慨も自然と湧いてくる。」と述べている。
また、「児島の緑とは、油絵具という材質と日本の自然との間にある宿命的な違和感を知りつくし、
研究しつくした上での工夫であって、そこには、西欧絵画がいまだ窺い得なかった、
一領域の開拓があるように受けとれた。」とつなげている。
そして「児島の緑の振幅は、蓄積された総和の強さとして私の中に印象づけられていたくらい大きかったといえる」と、
しめくくっている。
安東は文中に仏語のモドレという言葉を二度用いているが、これはモデリングのことで、立体表現や肉付けの意味のようだ。
善三郎の用いた太い線での「丸だとか山型によって一つの量感を無造作に摑みとるやり方」と表現している。
これは縄文中期の土器群に似ている。成型した土器の表面にデッサンに相当する沈線で構図を固め
その上に隆帯文という太い粘土の紐をのせてモデリングしてゆくやり方だ。
これに加え、日差しや雲の流れ、風の向きなどによって刻一刻と表情を変えてゆく緑の階調をパレットの上での混色や
キャンバスの上での塗り重ね等によってヴァルール(色価)の変化を作り出す。色彩の立体化である。
一見単純に見える画面もこれらを複雑に組み合わせた表現であり、
善三郎が終生追い求めた日本油画の3D化の賜物なのだと思う。
これは猛禽類の鋭い単焦点の眼と昆虫のデジタル的複眼の両方を持たなければ可能ではない。
余人のなし得なかった技である。故にそれを理解する人は未だ少ない。
作品を前にした時、あまりの心地よさに見る者は理解することを忘れる。それは食卓における至福の一皿に似ている。

 

兒嶋画廊 兒嶋俊郎

 

 

 


 

 

 

「ここに緑ありて」      安東次男

 

いろいろなことを考えさせる絵である。
色とか形とか絵画上のことはもちろん、そうでないこと、たとえば明治・大正・昭和三代にわたって表面平和でよき時代の子として、
実はその間さまざまな曲折を中にたたんで、誠実に生きたひとりの日本人の歴史、
その歴史の中に脈々としかし温和な知的抑制をともなって流れてきた、
悲願とまでいっては大げさになろうが、たしかに胸を打つ願い、そういうことまで考えさせる。
大人(だいじん)の絵である。国士の絵でさえある。
時に曲折を抑えすぎてペンキ屋の看板を思わせるような作品がないではない、
反対に抑えがきかなくてやり場のない力が筆触の荒れとなって目立つ作品もある、しかしそれらの大きい振り幅を含めて、
児島善三郎の絵には、見るものをして無視させない何ものかがある。悠久の山河、そういうことばで形容してもおかしくはない。
ここに緑ありて、というような感慨も自然と湧いてくる。
私は、1951年の秀作展で「春遠からじ」を、続いて同年の独立展で「アルプスへの道」を前にしたとき覚えた感動を、
いまだに忘れてはいない。
それは今思えば、純粋に絵画的な感動というよりも、多分に文学的なものだったようだが、
今この遺作展(1964年)の会場に立ってみると、10年前の焦土の感慨は、思ったよりなまなましく私の中に残っていて、
それほどの違和感やてれくささを伴わないで、素直に甦ってくるのをあらためて感じさせられる。
才能を持ちながら生前不遇であったり、夭折したりした画家の場合は別として、
遺作展や回顧展によって一層の筆力を示せる画家は残念ながらきわめて少い。画家の知性なり、思想にも関係のあることだ。
文学者とちがってそういうものを色とか形によって間接的にしか表現できない彼らの場合、
人間としての薄さ、貧しさ、とりとめなさが、遺作展によって露呈されることは意外に多い。
その稀な例外が、最近では須田国太郎であったように思う。そして今ひとり、ここに児島善三郎がいる。
そういうことをも、この遺作展はあらためて痛感させてくれた。
大画家必ずしも、こういう反省を強いる遺作展を持ちうるとは限らない。
この先、はたして何人の画家がこういうふるいに残るか、私にははなはだ疑問である。
先に「日本人の想像した色」と題して、私は、試みに何人かの近代・現代の画家たちを、とりあげてみたことがある。
もちろん、これだけの規準で画家の価値一切をはかるつもりなどは毛頭なかったが、それにしても選んでみて、
いかにも現代日本の絵画は無思想、無国籍であったようだ。私が無条件にとり上げてみたいという気持に駆られたのは、
わずかに須田の黒、児島の緑、それに坂本繁二郎や鳥海青児の、あらわれ方はそれぞれに違うが、
色になることを極度に抑えたような、間接的な色である。
いずれも、油絵具という材質と日本の自然との間にある宿命的な違和感を知りつくし、研究しつくした上での工夫であって、
そこには、西欧絵画がいまだ窺い得なかった、一領域の開拓があるように受けとれた。
これにくらべると、職人的なメチエによって強く規定されてきたと思われる日本の赤の特質などは、
かえって造形的表現がむつかしいらしく、
たとえば最近のオノサト・トシノブの仕事にようやく一つの形を与えられはじめたばかりのようで、
かつて岸田劉生がさぐり得た土俗的な赤の層など、思いのほか浅いのに気がつくのだ。
いわんや梅原など、こうした規準から考えれば、さほど日本の色とは縁がなかったといえるかもしれない。
安井曾太郎の晩年の緑は、大和絵の伝統を持つ風土を抜きにしては語ることのできないものだが、
その白緑の色さえも、はたしてそれにふさわしいフォルムなり色面を発見しているかどうか。
そういうことを考えてきて、さて一人から一点を選び出す段になると、
うすうす予測しないことではなかったが、やはり現実に一つの困難に突き当る。
須田や鳥海や坂本の作品を一点ずつぬくことはできても、児島の緑を一点だけぬくということは、これはほとんど不可能に近かった。
画集で一点一点をしらべて行くと、そのどれもが「これでもない」と思わせるほど、
それほどこの画家が私の中に植え付けてきた緑の印象は強くかつ豊かだった。
結局私は、そのとき児島善三郎の緑をとりあげることを、割り切れない気持ちのまま断念せざるを得なかったのだが、
こんどの遺作展は、その解答を求める打ってつけの機会ともなってくれた。
結論をいえば、児島の緑の振幅は、蓄積された総和の強さとして私の中に印象づけられていたくらい大きかったといえる。
そういうことを私は、この展覧会で、彼の国分寺在住時代(1936〜51年)のとりわけ10号で描かれた一連の風景小品に、
はっきり確認できるような気がした。
「高原」「寒空」「菖蒲咲く頃」「国分寺風景」(いずれも1948年)
これに「秋」(1935年)、「榛名湖」(1950年)とやや前後に隔った時期の作品2点を加えて、
同じ場所にならべて眺めてみると、おそらくこれほどの緑の変化を持った画家は容易には見当らないのだろう。
仮に今これらを習作とみなして、もう一度振返って年代をさかのぼり
「瀬戸の風景」「渓流」「東風」など同時代初期の作品あたりから、
「春遠からじ」「アルプスへの道」と眺め下ってくれば、私にはこの画家の滞欧時代(1925〜28年)から
帰国後の代々木在住時代(1929〜35年)にかけてのモドレのきいた裸婦の大作や、
晩年の作品の中にとりわけ重要な位置を占めるらしい花の連作を無視しないまでも、
やはり国分寺時代の風景の持つ重要性にはくらべるべくもない、と思われてくる。
薄塗りでありながら厚みを感じさせる密度のあるマチエール、
特徴的な大摑みな形、例えば丸だとか山型によって一つの量感を無造作に摑みとるやり方、
そしてこれまたまるでデッサンか心覚えかのようにぶっきらぼうに引かれた、縦や横の線、丸か山型の中の記号、
これらは源をたどれば必ずしもこの時代に始ったものではない、ヨーロッパではじめて学んだものでさえない、
もともと彼の資質的なものだろうが、それが帰国後、見慣れた日本の自然をとらえ直す仕事の中で
意識的に用いられ出したことが、私には面白い。
児島善三郎の目に日本の自然の特徴が、こういう大掴みで荒っぽい骨格と、一方ゆったりとした薄塗りの筆触による、
なめらかだが照りは少ないマチエールとの融合として映ったとすれば、とりもなおさずそれは、
彼の中のかなり派手好みな装飾的資質を厳しく抑制しながら、そこに、日本洋画が無反省に模倣してきた西欧流のヴァルールとは
別のヴァルールを作り出していった、ということにもなるだろう。
じじつ、色彩の東洋的というより日本的緊張感と西欧的な明晰さとの融合によって作られる彼のヴァルールの独自さは、
ヴァルールにうるさい「独立」派の絵かきたちの中でもとりわけ際立っていたし、
ヴァルールを口にする他の「独立」派の絵かきたちが色を抑えることの結果、
とかく無意識にくらい濁った色調に陥りやすかったときに、何よりも彼の色は、いつも明晰で、やわらかくしなやかだった。
それは、彼の色面やフォルムの工夫と別ではない。
そういうことを、日本の近代絵画は、考えてみるべきだったような気がする。
「春遠からじ」のような、いわば戦後のくらい時期の記念碑にしても、緑は潜みながら鮮烈である。
そういう色を使えたということは、彼が天性の色彩家であったことももちろんだが、
ヨーロッパでたしかめた骨格づくりとゆたかな肉付けへの自信をまって、はじめて可能であったようにも思われる。
というのは、今泉篤男が児島について伝えているように、
「自分がもし徳川初期に生まれていたら、きっと宗達のような仕事がしたかったろうというような空想はあるが、
それは、今の自分から考えてのことで、実際には画家としての私の血は一番乾山に似ているかもしれない」と語る一面が、
彼の風景からはかなりつよく想像されるところがあるからだ。
しかし一見宗達や乾山ふうに、あるいはまた織部ふうにも見えるかれの形の掴み方には、
あくまで、モドレによって生れた伸びのある量感をじつはヴァルールの強靭さに役立て置きかえるという、
油絵特有のマチエールの工夫があって、日本絵具や焼物の釉をつかっていくら努力しても、こうした造形にたどりつくことはできまい。
その点、須田国太郎の黒が鉄斎の黒と決定的にちがったように、べつのかたちで児島の緑もまた、
宗達や乾山、あるいは織部の緑とは決定的にちがうところから発想されている。
そういうことが、いかに日本の伝統の中へ回帰しても、やはり児島の芯になっていて、
一見春風たいとうとしたこの国士の展観に鋭い稜線をのぞかせるのだ。

 

(1964年回顧展に寄せて)

 

出典: 「ここに緑ありて」 安東次男 芸術新潮173号 1964年5月刊より

 

 

 

177web1930−32.向こうの丘 10号

「向うの丘」   1930-32年   53.0×45.5cm
 

 

190web木のある裸婦DSC00700cmyk

木のある裸婦   1932年   97.0×162.1cm
 

 

303web1936.260_1226

田園晩春   1936年   18.8×23.9cm
 

 

 

304web1936.松1936年 23.6x53.0cm

松   1936年   23.6×53.0cm
 

 

306web1936.冬の白田_切り抜き

冬の白田   1936年頃   45.5×53.0cm
 

 

332web風景(国分寺横長)1938.090_0799

風景   1938年頃   22.5×53.0cm
 

 

334web庭の雨1938.110_0216

庭の雨   1938年   45.5×53.0cm
 

 

340web松籟web

松籟   1938年   60.4×45.4cm
 

 

378web秋晴New

秋晴   1939年   45.5×53.0cm
 

 

423web1940.060_田園の春

田園の春   1940年   45.3×53.0cm
 

 

451web蘆ノ湖_1940._

蘆ノ湖   1940年頃   44.0×52.0cm
 

 

501web秋日DSC08404

秋日   1941年頃   45.5×53.0cm
 

 

563web1943.070_0683

西伊豆風景   1943年頃   80.6×100.0cm
 

 

590web長崎1944.150_0901

長崎   1944年   45.5×53.0cm
 

 

599web1945.093_1425_修復後再撮影

池畔(太宰府) 1947年   45.0×52.5cm
 

 

601web1945.110_0257

国分寺風景   1942-45年   15.7×23.0cm
 

 

683web国分寺風景1948.080_0443

国分寺風景   1948年頃   50.0×60.6cm
 

 

684web1948.090_0334_国分寺風景

国分寺風景   1948年   50.0×60.6cm
 

 

697web国分寺風景森未完1948.220_1221

国分寺風景(森)   1948年頃   50.2×60.6cm
 

 

738web1950.140_0387_田園初夏

田園初夏   1950年   22.8×53.1cm
 

 

741web国分寺風景1950.170_0371

国分寺風景   1950年   21.5×26.9cm
 

 

761web1950.36_西伊豆10号F1950年

西伊豆   1950年   45.5×53.0cm
 

 

763web田園風景1950.380_0327

田園風景   1950年頃   22.4×24.2cm
 

 

045_1951.200_0397_初夏

初夏   1951年   46.1×65.3cm
 

 

808webアルプス1951.230_0402

アルプス   1951年   45.5×53.0cm
 

 

K00190web善三郎 松 10f-1936年

松   1936年   45.5 x 53.0cm

 

 

 

 

386web1939.105_0326

榛名湖新緑   1939年   45.5 x 51.0cm

 

 

 

k00292蝉聲web

蝉聲   1943年   45.2×52.6cm
 

 

この他に、お求めやすい小品や水彩画なども会場にてご覧いただけます。